*--後藤直の趣味のブログ--*


2010年09月の日記

赤い立ち達磨図(手持ちの最後の達磨図です)
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赤い法衣の立ち達磨図です、お顔は大変厳しい表情の立ち達磨です。
前にも達磨に対する私の思いについて、お話ししました。
達磨さんは日本人には大変親しみのある受け取り方をされている様です、
真理とはなにかというものを体得するために厳しい修業を実践された先人に対する尊敬からでしょうか?
又偉い達磨さんにあやかって、自分にも御利益があればいいなという現実路線もきっと、ある事でしょう。
いろんな受け取り方が有る事と思います。
日本人は七ころび八起と、不屈の精神(忍耐)を良しとすることなのでしょう、起き上がりこぼしもまさにそれでしょうか、ともかく、私は達磨さんに特別の愛着を感じる者の一人です。今日で私の手元にある全ての達磨の掛け軸をご紹介させて頂きました。
達磨図のご紹介の完結です。

2010年09月30日(木)   No.288 (私設絵画館)

以前に掲載しました達磨さんも集合です。
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お盆の8月16日に掲載致しました横向き達磨と正面達磨です、作者は尾竹国観です

8月30日掲載の達磨図、工芸品です、原画は馬堀喜孝です

9月1日掲載の達磨です。作者名嶷堂?詳細不明
2010年09月29日(水)   No.287 (私設絵画館)

美人と達磨の図
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美人達磨図の典型的な図柄の様です、作者名は入っていません。
掛け軸を掛けて良く見ると、線描の粗雑さや、細部の稚拙な描き込みにあっけにとられました。
此れは失敗したかなと思い、あきらめの気持ちで一歩下がって見ますとなかなかの見応えのある絵なのです。
見下した感じの美女の視線、(まるで私を見下しています)、とぼけた顔の達磨さん(瞳はじーと此方に語りかけています)、付き添いの女の子のさめた表情など、なんとも云えないものを感じます、又人物の配置や構図、色の配置を含めたボリュ―ム感、結構いけるとなと思って来たのです。
(デモ不安です)シロ―トが趣味でだれかの絵を模写したのではないか?
後ほど掛け軸などに明るいW氏に見てもらいました、「昔は画家とまではいえないが画工といって庶民に普及する為の絵を描いていた人たちがいた、表装もかなり古いのでその様な時代の絵ではないだろうか?」
「この様な絵はあまり手を出すものではないと思う」とのアドバイスでした。
私にとって、まず第一印象はゲテモノでした、見ているとだんだん引き込まれて今は大変お気に入りです、まるで絵の毒気にあたって、こちらが絵にマインドコントロールされたました、こんな絵もあるんですね。
2010年09月28日(火)   No.286 (私設絵画館)

達磨美人の図(耳かきをしてもらっている達磨美人の図)
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達磨の顔のUPが何とてもリアルです、だれかの顔に似ています。
勿論の事ですが、仏画というより浮世絵のジャンルでしょうか?
雅号 琴仙です、作者不詳。
2010年09月27日(月)   No.285 (私設絵画館)

達磨図
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作者は、新潟県出身の味方海山です。
自から指頭海山(海山指頭)と称し、指を使って絵を描いていたそうです。
数年前に新潟市北区の豊栄博物館で指頭海山を紹介する展覧会があり、その時は、あまり気にしないで、そこそこしか印象にありませんでした。
その後、ある人から新潟大学の岡村浩先生の著わした、
「阿賀野路を彩る文士ー磯野霊山と味方海山」を見せて頂きその生き様を知る事で、味方海山のファンになってしまいました、いずれ、この他に何点かご紹介致します。

味方海山(1863〜1942)。現在の新潟市中央区寄居町に生まれ。幼少から指先で絵や字を描き、画家としての才能を見抜いた父親が京都の南画家田能村直入に弟子入りさせた。
そこで海山は文人画を学んだが指頭画を貫いた。その珍しい描き方と、繊細な仕上がりに、人気を博し、特に梅と達磨の絵を得意とし、驚くほどの速さで仕上げたという。
また皇室や軍の上層部の人たちの前でもその描きぶりを披露していたことが当時の新聞に記されているという。
 長い間旅画家として全国を渡り歩いたが、晩年は新潟松浜に戻り79歳で亡くなった。

2010年09月26日(日)   No.284 (私設絵画館)

達磨大師の図
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昨日の達磨はにらんでいました。
今日の達磨は椅子に腰かけ静かに思索しています。
昨日の達磨は活力がみなぎり、凡人の私に喝と言っている様です。
今日の達磨は安定した心持にさせる様な絵だと思います。
私の心の状態でそれぞれ、その都度という処です。
作者名光橋(作者は不明です)
2010年09月25日(土)   No.283 (私設絵画館)

達磨大師の図
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一般的なイメージの達磨図だとおもいます。
我が家のリビングに飾っていましたら、81歳のお婆ちゃんは毎日達磨さんに、にらまれて居るようで、適度の緊張感があってメリハリに成るとの事でした。
雅号、落款は雅堂です。作者不詳です。
因みに新潟県出身で外山雅堂という画家が居りましたが、雅号の筆跡がまるで違います。
又小室翠雲の門下で大山雅堂という画家が居りますが此の作者かどうかは不明です。
2010年09月24日(金)   No.282 (私設絵画館)

葦葉達磨図PART2
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葦葉達磨図 PART供頁半綯K畤淤瑤賄漏っK畤泙箸發いΔ茲Δ任后
作者「柳蛙」
物故書画家人名辞典ver2 より
歌川国政(五代)明治〜大正の風俗画家
歌川国貞、飯島光峨の門下
?〜大正2年(1913)享年?歳
本姓は竹内 雅号 小国政、国政、媒同、柳蛙
出身江戸
浮世絵師(5代国政)です。なるほど絵を見れば、仏画というより、劇画のジャンルといえるでしょうか?目が血走り達磨の決意が強調された絵だと思います。昨日の葦葉達磨図とはかなり雰囲気が違う表現だと思います。
マクリの状態で手に入れました。表装は私が新たにお願いしたものです。
2010年09月23日(木)   No.281 (私設絵画館)

葦葉達磨図PART1
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達磨大師にまつわる故事(コラム「だるまさん」/web智光院)より

梁の国王・武帝は、熱心な仏教信者でありましたが、残念なことに「禅」との因縁は結ばれませんでした。そこで達磨大師は、揚子江を渡り、魏へ入りました。嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に留まり、独り坐禅修行を続けていました。
蘆葉の達磨(ろようのだるま)
梁から魏へ向かう時に、アシの葉の上に載って揚子江を渡った、という話。このページ最初の写真右が「蘆葉達磨図」で、中国ではよく画材になっている。渡し船がアシの葉の形に似ていたので、このように創作されたのだろう。

(物故書画家人名事典)より
絵の作者 池上文遷 野村文挙の門下で禅画を得意とした。
明治20年(1887)〜大正10年(1921)享年35歳
名は藤五郎 東京都出身

但し箱書きは在りませんので本人の作品の確信はありません。
2010年09月22日(水)   No.280 (私設絵画館)

隻履の達磨(せきりのだるま)(達磨が履物を片方ぶら下げて)
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二十日がお彼岸の入りでした。此のたびも彼岸にちなんで達磨大師をご紹介いたします。
向かって左の達磨はお盆にご紹介しました尾竹国観の絵です。
今回は中央の達磨をご紹介いたします、作者は橋本秀邦です。
達磨大師の事はよく分かりませんので、コラム「だるまさん」/web智光院より掲載しました。

● 隻履の達磨(せきりのだるま)(達磨が履物を片方ぶら下げて歩いています)
魏の宋雲という人物が、明帝の使いで西域に行き、中国へ戻る帰り道、履物の片方をぶら下げた奇妙な僧に出会った。宋雲が奇僧に「どこへ行くのか?」とたずねると、奇僧は、「インドへ帰る。」と答え、さらに「あなたの主は亡くなられたぞ。」と答えた。宋雲が魏に帰ると、はたして奇僧の言ったとおり、明帝は崩御していた。後日、「その奇僧は、きっと達磨大師に違いない」と、人々の噂するに到り、大師の墓を開けたところ、棺の中に遺体はなく、片方の履物だけが残っていたという。・・・・・

私の疑問、という事は達磨大師は亡くなって再度復活したということでしょうか?

{思文閣 美術人名辞典 }
橋本秀邦. はしもと しゅうほう. 日本画家。 明治14年(1881)東京生。 日本画家橋本雅邦の三男、弟は永邦。 名は得。 父の指導を受け、連合絵画共進会で銅牌を受賞。 雅邦門下生による二葉会幹事となり、文展開設では新派の国画玉成会に参加す。

2010年09月21日(火)   No.279 (私設絵画館)

柘榴の実
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柘榴、此の絵も子供たちが小中学生の時に文化祭の父兄として出品の為に描いたものです。季節ですので掲載しました。
2010年09月20日(月)   No.278 (スケッチ)

彼岸花(絵手紙作家岩崎八重子先生)より頂戴いたしました。

彼岸花。
絵手紙作家岩崎八重子先生より以前に頂戴したものです。
明日から彼岸ですので掲載致しました。
2010年09月19日(日)   No.277 (私設絵画館)

越後平野は黄金の波(いよいよ稲刈りが始まりました)
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新潟市江南区(旧亀田町〜旧横越村の二本木)の間で今週始めに撮影したものです、向こう見える山は五頭山も見えます。
黄金の波といいますが、本当にお日様に照らされると金色の様に輝いて見えます。
昔の田んぼは此れに「はさ木」がありました。
蒲原平野と云って、何ともいえない味があったものです。
遠い昔の景色をダブラシて見ています。
2010年09月18日(土)   No.276 (散策)

八幡宮(秋葉区車場の鎮守様)
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9月15日と9月16日の二日間にわたりご紹介しました「T氏邸」のある秋葉区車場の鎮守様です。
八幡宮は源氏の守り神様とか、その昔小阿賀野川沿いのもう少し上流に当たる
秋葉区の大蔵と云う開墾村がたびたび水害にあったそうです、そこでの居住をあきらめた人たちが、この地を開墾して移り住み、今の車場の元になったのだというような事を、かなり前に新潟の地名の本で目にしたことがあります。
そんな事を思い出しながらウォッチしました。
ヒョトすると大蔵の鎮守も八幡様だったかな?なんて思っている処です、今度調べてる事にします。【その後調べました青海神社でしたこの近辺では加茂山公園の神社がそうだったと思います】
源氏を祖とする人たちが開墾したのでしょうか?
そういえば、新潟市西蒲区には今は埋め立てられて存在しませんが、昔、鎧潟と云う潟があり、源氏の八幡太郎の鎧にまつわる話を聞いた事が有ります、旧西川町の曽根にも立派な八幡宮が在ります。
もし仮に源氏を祖としなくても、征蝦大将軍の源氏の影響力のあった地域やその人たちなのかもしれないなー、なんて想像していました。
2010年09月17日(金)   No.275 (散策)

現代和風の家(新潟市秋葉区T氏邸、昨日の続です)
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現代和風の家(新潟市秋葉区T氏邸、昨日の続です)
昨日は真っ黒な梁をご紹介致しました。
今日はその外部です、古くて黒い梁組と外部の調和を考えながら計画しました。後藤工務所が目指すものに「現代と伝統の調和」があります。
まさに、この建物がその様にと思うところです。
2010年09月16日(木)   No.274 (散策)

真っ黒な大きな梁此れが昔の農家の梁です。
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真っ黒な大きな梁、此れが昔の農家の茅葺屋根の梁です。
15畳の床の真ん中くらいに囲炉裏があってその囲炉裏から出る何年何十年の煤がこの色をつくりだすのです。又、年に2回の大掃除のときに丁寧に磨き、何十年かの間にこの艶になるのです。作ろうとしてなったものではなく、毎日の営み生活の結果このような色艶になった物なのです。
新潟市秋葉区のT邸約120年程の歴史ある建物だったとお伺いしました。
新築に先立ち、ぜひ此の梁を生かして欲しいとの、T氏の強いご希望でした、又「新潟町遺産の会」の会員でもある私いとって、それは願っても無い機会でしたので此の梁が次の世代にも受け継がれるにふさわしい、建築にと思い現代和風の中に取り入れました。
2010年09月15日(水)   No.273 (散策)

立派ななお庭(実は借景の効果がさらに)
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新潟市の東区H氏邸の庭です、もともと100坪ほどの立派な庭ですが、雰囲気はその五倍にも見せます。
借景の効果で、まるで京都にいる様な気分を味わえます。
建築工事は後藤工務所にて担当させて頂きました。
2010年09月14日(火)   No.272 (散策)

秋海棠の花

秋海棠の花
27歳になる息子が中学生の時に学校の文化祭で父兄として出品した絵です。
当時はサラリーマン(企業戦士といわれる時代)で、単身赴任が多く息子たちのことや、学校行事への参加は難しかったものが有ります。
そのへんの穴埋めに描いた事を思い出し懐かしさもあります。
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2010年09月13日(月)   No.271 (スケッチ)

大蓼(テルサ水彩画教室にて)

大蓼
2010年09月12日(日)   No.270 (スケッチ)

秋の入り口

日中はまだ残暑ですが、朝は特に涼しく成りました。
秋の入り口を感じる処です。
2010年09月11日(土)   No.269 (スケッチ)

百日草
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本当に暑い日差しの中で長いこと咲いています。
名前の由来はそこからきたのでしょうか、いくつかの花がまとまって咲いている処はかなりあでやかにみえますが、花をい一つずつ写生するとコットンの様な肌合いの花びらが、意外と地味のようにも見えます。
菊科だそうです。
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2010年09月10日(金)   No.268 (スケッチ)

鶏頭の花
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なかなか鶏頭の花の紅い色は出せません.

暑いのにこの紅い色を見るとなおさら暑いです。
2010年09月09日(木)   No.267 (スケッチ)

涼風を求む、台風いらない!(残暑お見舞い申しあげます)

なかなか涼風がたちません、台風9号が新潟県に今夜最接近との事、
梨農家さん心配の事だと思います、無事であればとお祈りします。
台風の後も、猛暑が再来との事です。
残暑お見舞い申しあげます。
2010年09月08日(水)   No.266 (スケッチ)

沙魚(朝井観波)
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新聞で見ましたが、今年はハゼが入れ食いとか、絵の魚はハゼではないかと思います。
作者は、 朝井観波 (あさいかんぱ) 日本画家。東京生。父は漢学者の朝井国南。本名は行五。はじめ川端画学校に入学し、のち日本美術院研究所で学ぶ。大正6年再興第4回院展に初入選、同年荒井寛方に随伴し渡印。アジャンタ壁画を模写する。帰国後、インドの古代説話に基づいた作品を制作。また日本美術院院友となるが、平福百穂の画風にひかれ脱退。のち、帝展で入選を重ね活躍した。昭和60年(1985)歿、88才。
尚今年(H22年7月20日)に掲載しました西脇蒼波の師匠にあたります。

三条の山田美術店にて求む。
2010年09月07日(火)   No.265 (私設絵画館)

栗鼠(板倉星光)
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栗鼠
作者は板倉 星光
いたくら せいこう
明治28年(1895)〜昭和39年(1964)
京都市に生まれる。本名捨次郎。大正3年(1914)京都市立美術工芸学校卒業を経て、同6年(1917)同絵画専門学校を卒業。菊池契月に師事する。大正4年(1915)第9回文展に「露」が初入選、以後文展、帝展、新文展、日展、新日展に出品。昭和4年(1929)第10回帝展で「春雪」が特選、翌5年第11回帝展で「春雨」が特選となり、翌6年同展の推薦となる。同10年(1935)堀井香坡らと水明会結成。同12年(1937)第1回文展で無鑑査となる。同17年(1942)東京で目黒雅叙園の襖絵を制作。同18年(1943)富山県入善町に疎開、戦後も逗留す。同24年日展依嘱となる。
(C)京都市立芸術大学芸術資料館

三条静美堂にて求む。
2010年09月06日(月)   No.264 (私設絵画館)

秋の花萩
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「ぼた餅」は春の呼び名「おはぎ」は、秋の呼び名、全く同じものだそうですが、呼び名が違う、日本人の季節に対する思いの強さがそのようにさせたのでしょうか?、ばか暑い中、秋の花の代表のひとつ、萩が咲いています。せめて
花を見て少しは季節が秋めいている事を感じようと思います。
2010年09月05日(日)   No.263 (散策)

東坡洗硯の図
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中国の詩人「蘇東坡」が険しい山奥の山荘で隠遁の暮らしをしている処でしょう。
直ぐその前を流れる川で東坡が弟子と硯を洗っています。
東坡の求める理想の生き方を、此の絵は現しているんでしょう。
賛を読めない私ですが、箱書きには「東坡洗硯の図」と書かれております。
作者名は香石居士、田義と書いてあります、作者は不明です。きっとこの香石という絵描きは「蘇東坡」へのあこがれから自分が東坡に成りきったつもりで、此の絵を描いたことだろうと私は思います。
私は、この作者はよほどの東坡にいかれポンチなんだなとおもいました。
でも大家でいるんです、実は富岡鉄斎がそれなんだそうです、生まれた
月日が蘇東坡と同じだった事を大変自慢していたそうです。
とすると香石居士さんは鉄斎にもいかれポンチだったのかもしれません、絵が鉄斎風ともいえる、すこしおとなしけれど。


産業会館骨董市(信濃町の骨董屋)にて求む。
2010年09月04日(土)   No.262 (私設絵画館)

朝顔図屏風(江戸琳派の絵師 鈴木其一の作品)
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昨日の写真で琳派の様に朝顔が咲いていました。
今日は江戸琳派の鈴木其一の絵を、本で、ご紹介いたします。
朝顔の咲き方もまるで、琳派と言いたい気持ちをご理解下さい。
2010年09月03日(金)   No.261 (独り言)

朝顔の花

朝顔の花
私の実家で咲いていた朝顔です、いつも思いますが花は琳派の絵の様に
咲くもんだなーと再び感心したところです。
2010年09月02日(木)   No.260 (独り言)

達磨の図(PART)
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達磨の図(PART掘
それぞれの画家が自分なりの達磨像を表現された事でしょう。
作者は「嶷堂」でしょうか?作者の詳細は不明です。
2010年09月01日(水)   No.259 (私設絵画館)

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