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昨日2月25日は天神様、菅原道真の命日との事です、亀田地区はお祭りは
あまりやられていない様ですが私の育った秋葉区(新津)ではまだその行事は
続いているようです。新津の町を通ったら、天神菓子ありますの看板を見か
けて懐かしさもあり買ってきました。
掛け軸の天神様の前にお供えし、まだ10ケ月と4ヶ月になる孫のためにお祭り
をしました。
作者は落款が佐竹永海となっています、(ただし真贋は分かりません)
ウィキぺディア、フリー百科事典より下記に佐竹永海の資料を添付します。
会津若松城下北小路町の蒔絵師の子として生まれる。字の周村は、雪村周継の後衛と称したことに因む。幼少の頃から地元絵師の萩原盤山に師事し、盤玉と号した。14歳にして既に作品を残している[1]。
20歳の頃、江戸に出て谷文晁の画塾写山楼に入門。文晁門下の高弟となる。
30歳の頃、独立し一家を成した。書画会や詩会に参加し当代一流の文人や有力者と交流。天保9年(1838年)、この頃までに大老井伊直亮に気に入られ彦根藩の御用絵師となっている。
弘化元年(1844年)に一時故郷の会津に滞在。以降も故郷に幾度も帰省している。
安政2年(1855年)、剃髪し得度。法橋に叙される。すぐのちに法眼に叙されている。
桜田門外の変により井伊直弼が倒れ大きな後ろ盾を失うも、井伊家との関係は明治以降も続いた。また会津の細井家や世田谷の大場家など豪商の庇護を受けその後も盛んに創作し各地に傑作を残している。
永海の画系は継嗣の永湖・その養子永稜・娘婿永邨に引き継がれる。松本楓湖も門人のひとりである。
永海は画人としては成功したが郷里では親不孝と謗りを受け、生涯で16度も妻を娶り、大酒呑みで有名。奇行の画人といわれた。享年73。谷中霊園に葬られる。
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