*--後藤直の趣味のブログ--*


2012年06月の日記

優婆尊   (旧笹神村の五頭山への道中)

旧笹神村の五頭山への道中にある優婆尊です、大きな杉の木が拝殿を取り囲んでいます、五頭山登山をする方は勿論おなじみのことでしょう。
この様な田舎に大きな拝殿が有ることからするとよほど信仰され又財力が有ったんだなと想像しています。
因みに優婆尊に近いと思われる「奪衣婆」をネットで検索してみました。
ウィキぺディアフリー百科事典より
懸衣翁(けんえおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣..
2012年06月30日(土)   No.935 (散策)

瓢湖の菖蒲 (五頭山麓の帰り道)
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やまびこ通りの帰り道、瓢湖のあやめ祭りを見てきました、素晴らしい花を楽しむことが出来ました。
2012年06月29日(金)   No.934 (散策)

オオバギボウシ(ウルイ)の花 五頭山麓(やまびこ通り)
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私の小さな庭で栽培しているウルイのお話をしたことがありました。
実は今年は花が咲きません、心あたりは葉っぱを食用としてもぎ過ぎからかな?と気がとがめていたところです、やまびこ通りの歌碑のところに咲いていましたウルイです、これを見てなおさら気をとがめていたところです、今頃咲いていたはずなのにと。
2012年06月28日(木)   No.933 (散策)

ヤマブキショウマ(五頭山麓)
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アジサイと隣接して咲いていました、初夏に涼しげに咲いていました。
ヤマブキショウマに似ていますが、いかがでしょうか?
それともイラクサの仲間でしょうか?
ヤマブキショウマはバラ科ですがイラクサの仲間はイラクサ科です姿は似ていますが私も見わけには自信がありません,
しかしそれゆえに、山の散策が楽しい事も事実です。
2012年06月27日(水)   No.932 (散策)

「エゾアジサイ」?「ヤマアジサイ」?五頭山麓(やまびこ通り)
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昨日に続き五頭山麓のやまびこ通りです。
花は「エゾアジサイ」でしょうか?それとも「ヤマアジサイ」というのでしょうか地味ですが趣のある花です。
2012年06月26日(火)   No.931 (散策)

五頭山麓(やまびこ通り)
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昨日の日曜日梅雨の晴れ間でしたので久しぶりに五頭山麓のやまびこ通りを車で散策しました。

下の写真が五頭山です頂上が5ツあります、思い出しますが今から7年ほど前
の秋の朝は晴れたので五頭登山をしました。
ところが1の峰の頂上に付いた時には、雨風とも大荒れになっていたのです、すでに人気もなく直ぐ下山をしたのですが、頂上から10m程度降りた時でした、落ち葉で足元の穴が隠れていました、その穴に足を突っ込んでしまい、前のめりになり「ボキッ」という音と激痛でした。
幸い山はいいもので登山者に助けられ、更にレスキュウ隊や県警のヘリコブタ―の御厄介になってしまいました、でもその時そのおかげで私は現在あるのだと苦い思い出ですがお世話になった皆さんに感謝して、又改めて五頭山と対峙しているところです。


2012年06月25日(月)   No.930 (散策)

「木曽渓」                作者 小島一谿

雲の感じがちょうど今頃の季節の物だと思います、画題は「木曽渓}です。
木曽渓谷の筏を操る瞬時の緊張感が伝わって来るような絵だと思います
現代の日本画からすれば少しハズレてしまった一時代古い絵だと思いますが、でも確かな修錬に裏打ちされたものを感じます。

作者小島一谿
岐阜市加納に生まれる。幼少の頃一家で横浜に転居。大正二年、川端絵画研究所洋画科に入学。日本画に転向し、大正五年、前田青邨に入門。 主に院展で活躍。昭和49年に没。

小島一谿とは - 美術人名辞典 Weblio辞書
小島一谿とは?美術人名辞典。 読み方:こじま いっけい日本画家。岐阜県生。本名は 重三郎。はじめ川端絵画研究所に通うが牛田鶏村・中島清之と知り合い日本画に転向 する。前田青邨に師事。院展で受賞を重ね活躍。風景画を得意とした。奨励賞受賞...

2012年06月24日(日)   No.929 (私設絵画館)

ホタルブクロの花。

梅雨の時期に花の中に雨を入れない様にと考えたらしい、下を向いて咲く花ホタルブクロの花です、淡い色でよわよわしく木陰が似合う今の時期に咲く花です。

ウィキぺディア、フリー百科事典より掲載
ホタルブクロ(蛍袋、Campanula punctata Lam.)とは、キキョウ科の多年草。初夏に大きな釣り鐘状の花を咲かせる。
開けたやや乾燥した草原や道ばたなどによく見られる草本で、全体に毛が生えている。根出葉は長い柄があり、葉身はハート形。匍匐枝を横に出して増殖する。初夏に花茎を延ばす。高さは、最大80cmくらいにまでなり、数個の釣り鐘型の花を穂状につける。花は柄があって、うつむいて咲く。

山間部では人里にも出現する野生植物であるが、美しいので山野草として栽培されることも多い。花色には赤紫のものと白とがあり、関東では赤紫が、関西では白が多い。

2012年06月23日(土)   No.927 (散策)

クガイソウでしょうか?

新潟市江南区松山の小さな美術館季の前庭の木陰に咲いていた花です。
名前は分かりませんがオカトラノオに似ていますが調べてみたらクガイソウの様です、決めては葉の付けねを見て下さい葉っぱが1ヶ所から5枚広がって付いていますそれが何段かになっている状態です花はオカトラノオを少し細くしたような感じです。

ウィキぺディアフリー百科事典より。
クガイソウ(九蓋草、九階草、学名:Veronicastrum japonicum)はゴマノハグサ科クガイソウ属の多年草。





2012年06月22日(金)   No.928 (散策)

菖蒲の小皿です。

菖蒲の小皿です、なにげない小皿ですが菖蒲の絵と扇が2つ描かれています、ちょうど今の季節のものなので掲載します、この様に季節にあわせて食器を選んで料理を盛り付ける、そんな贅沢はうらやましいな。
2012年06月21日(木)   No.926 (がらくた談議)

紫陽花
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季節にしては早い台風4号が豪雨被害を残して日本列島を通リ過ぎました、
追っかけて台風5号も気になります。幸い新潟県内は大きな被害も無かった様ですが今日は真っ黒い雲が立ち込めてまさに梅雨本番といった処です、そんな中紫陽花の花がほっと一息いれさせてくれます、事務所の裏庭に咲く花です。
2012年06月20日(水)   No.925 (独り言)

紫陽花

紫陽花の花は今が盛りです、色の淡さが雨に似合います。
2012年06月19日(火)   No.924 (スケッチ)

ドクダミの花

ドクダミの花の白い色が好きです、手で積むと何とも言えない匂いが好きです。
名前のいわれは、毒をダムつまり毒を矯す(直す)意味だそうです、薬草なのですね。
2012年06月18日(月)   No.923 (スケッチ)

滝見賢人の図(仮題)  作者     五十嵐浚明
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滝見賢人の図(仮題)  
2007年2月10日〜4月1日で新潟市歴史博物館にて開催された、「新潟・文人去来」(江戸時代の絵画をたのしむ)という企画展がありました。
この滝見の場面に酷似した、屏風が展示されておりました、作者は五十嵐浚明です。

下の写真はその時の図録です、滝見をしている賢人の絵です、これと比べて観て下さいサインを含めて十分似ていると思いませんか、いかがでしょう?
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2012年06月17日(日)   No.922 (私設絵画館)

小さな粒粒の花集まれ。
庭ナナカマド?(バラ科)       京鹿野子(バラ科)
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アスチルべ(ユキノシタ科)     センダン(センダン科)
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私は町内の散策が好きです特に小さな路地の生け垣に咲く花に季節を感じます。
実は撮った写真は今咲いている粒粒の花です、代表選手は「庭ななかまど」「京かのこ」は共にバラ科ですが、アスチルべはユキノシタ科だそうです私が育てているショウマはまだ咲きませんが親戚だそうです。
「せんだん」センダン科は大木になります。
私の推理ですが粒粒の小さな花の方が、梅雨時の雨に対してその方が合理的だからかな?なんて勝手に想像しながら散歩しています。
いつもの事ですが妄想と、推理ぐせが治りません。
いずれの花も梅雨の晴れ間には夏に、涼しさを演出してくれます。
2012年06月16日(土)   No.921 (散策)

松尾芭蕉を連想しながら村上から新潟までの帰路その3。
江口からの阿賀野川新潟岸より、その昔は川の対岸からは蝦夷地だった時もあるのでは?林徳寺山門
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古びた芭蕉句碑       更新された芭蕉句碑「稲妻や顔の処が芒の穂」
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旧暦7月2日(今の暦で8月16日)午後3時過ぎ新潟に着いた松尾芭蕉一行は、旅籠屋は満員で1部屋に何人も押し込める追い込み宿しかあいていなかった、芭蕉はそんな宿は大の苦手である、と金森敦子さんは書いています。途方にくれていると大工の源七の母親が自宅に泊めてくれることになった、とも書いています。
松尾芭蕉の元禄時代新潟港は日本海側随一の湊で豪商たちで栄え、俳諧始め文化的な水準も高かったと言われていますが,本当にそうだったのでしょうか?
もしそうだとしても結果としては、残念ながら芭蕉に対しては全く関心が無かった様です。
ところで新潟に着いた旧暦7月2日は湊町新潟の祭礼が行われて、これを見る為に道筋の家々では桟敷を作って待ちかまえ、近郷からも大勢の見物客がおとずれたという。
旅人の泊まるところがないのも当然であるとも、金森さんは書いています。
ところで新潟湊は当時信濃川左岸が長岡藩が治め流通としては全国ネットの機能の湊で栄ていました、一方信濃川の右岸にあたる沼垂湊は新発田藩が治め新発田と近郷のローカル路線だった様です、長岡藩と新発田藩の競り合いで長岡藩に軍配があがったという事でした。さて松尾芭蕉が泊まったのはどちらだったのでしょうか?実は右岸の沼垂側であれば蒲原神社の祭礼が現在も
今の暦で6月30日から7月2日まで開催されるのです、一方新潟左岸側は新潟祭りが少し前までは川祭りといって、今の暦で8月15日から3日ほどでした、芭蕉は旧暦7月2日(今の暦で8月16日)に新潟に泊まっています、どちらの祭りとぶつかってしまったのでしょうか?
どうも後日調べた資料で信濃川左岸側つまり沼垂でなく新潟港だった様です
大工の家に泊まったとのことですが、ある人の推理ですが屋号みたいに「大工の何々」といっている旅籠だろうという人もいるようです、結局のところ新潟の川祭りにぶつかってしまった様ですね。
「海に降る雨や恋しき浮身宿」の句碑が現在は古町1丁目の神明宮境内にあるそうです。
ともかく松尾芭蕉は特別に歓待されることもなく新潟に1泊して翌日旧暦7月3日(今の暦で8月17日)弥彦に向かって旅立ちます。
県北の町村上市からの帰り道に芭蕉を慕って、金森敦子さんの著わした芭蕉「奥の細道」の旅、を片手に新潟まで帰ってきました、しかし芭蕉たちを新潟でだれも歓待してくれない元禄当時の豪商達や教養人にたいして私なりに不満を覚える者なのですが、此れからの道のりも芭蕉にとっては不満な状況が続くのです。
新潟を発った松尾芭蕉が柏崎で更なるいやな思いをする事が待ち受けているのです。
因みに山形県の尾花沢では歓待され10泊11日も滞在しています、それに比べ新潟県内は今の暦で8月12日に中村に一泊してから今の暦で8月27日には市振りを発っていますその間15日です真夏の暑い時期に如何に短い期間だったことでしょう、少し休憩を取りながらゆっくりと越後路を歩いていただければよかったのにと思いながらこれで終わります。
ただ新潟がこんなに苦労の旅になってしまったのには、松尾芭蕉も失敗してしまったことがあると思うのです。
それは村上で歓待してくれた喜兵が村上を発つときに、次は大庄屋の家に泊まる様にと紹介状を書いてくれていたのにもかかわらず、乙を案内してくれた次作の倅の築地の次市郎の家に泊ってしまった事です。
山形県内での歓待のされかたはやはり紹介状の効力が上手くいったのだと思うのです、つまり村上藩の大庄屋の家に泊っていれば新潟へも次の紹介状を携えて上流階級を頼って旅が出来たはずです?
新潟でもきっと有力豪商に歓待された事だと思います、そして次の宿泊地でも苦労することはなかったでしよょう、特に柏崎の天屋惣兵衛からもあんなにプライドを傷付けられる事もなかったと思います、もしその様にうまくいっていたならば、松尾芭蕉「奥の細道紀行文」も越後路がもっと中身の濃いものに成っていただろうと私は残念な思いでこれもまた想像するのです。
2012年06月15日(金)   No.920 (散策)

松尾芭蕉を連想しながら村上から新潟までの帰路その2。
今日も金森敦子著芭蕉「おくのほそ道」の旅を片手に村上から新潟に帰りましょう。
村上で2泊した芭蕉一行は今の暦で8月15日に村上を発ち、乙へ行き次作という者を訪ねたらしい。
次作は歓待してくれたとの事、乙の乙宝寺へ同行している。
その時読んだ句が6月6日にご紹介した「うらやまし、浮世の北の、山桜」の句ということになるでしょうか。
乙から築地に向い、その日は次作のせがれ(次市郎)の家に泊まったとの事です。

翌今の暦で8月16日朝新潟に向かいますが
一つのルートは海岸沿いを歩く村松浜〜次第浜〜島見浜〜松ヶ崎〜沼垂〜新潟までのルートおおよそ8里(32km)。
もう一つのルートは、舟を利用して、今の紫雲寺潟(当時塩津潟)〜加治川〜島見前潟〜阿賀野川〜信濃川経由で新潟への道のりです。
金森さんは、どのルートをいったのかは分からないが当時は舟を利用した方が便利だったみたいだと想像されています。
それと関係があるのでしょうか、阿賀野川の対岸(新潟側の対岸)に江口という地名がありますが、江口の林徳寺に芭蕉の立ち寄ったとされる石碑が有ることが以前新潟日報に紹介されたことがあります、私も見て来ました。
ともかく今の暦で8月16日の3時過ぎに新潟に着いたらしい芭蕉一行はこれから大変な苦労をすることなるのです、それは次回のお楽しみです。
2012年06月14日(木)   No.919 (散策)

地震津波の被災地の高台移転の方針に思うもの。
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2週間ほど前にNHK特集で東京直下地震の研究状況が放送されました。
日本の首都東京が津波にどの様に襲われるかをシュミレーションとした場面もテレビで報送がなされていましたが、それは都市の壊滅状態を意味するものでありました。これを見ていて、一般市民は何をしたらいいというレベルの問題をはるかに超えている事だと思いました。
政府や東京都、それから民間企業の本社がなにを準備すればいいのかが緊急の課題ではないでしょうか、そういえば今から約20年?ほど前には、首都移転が唱えられた事もありました、しかしあの番組を見ているととても時間的に此れからでは手遅れなのではとさえ感じました。
とにかく緊急な課題と受取りましたが、だれがなにをしたらいいのか、NHKはそこまでは示さなかった様に思います。
少し話題が変わりますが、昨年の大震災の被災地をいち早く、これ又短絡的と思われるほどに菅前総理大臣が高台移転の方針を唱えました。それはどなたかのアドバイスに飛びついた様な感じでした。
ところががなかなか条件が整わず遅れているとの報道です、東京やその他の海に面する都市の事を考えると高台移転の場所なんかあるのでしょうか疑問です。
仮に高台を切土や盛り土で造成する事だとおもいますが、新潟県では中越地震又中越沖地震、更に昨年の3月12日の十日町の地震でも斜面の崩壊や地盤のすべりによる移動が発生している現実があります。
高台移転をするよりもむしろ技術的なものを検討をして今までの市街地に工作物(建築物)で津波に対応出来る性能や機能をそなえた建築を造ることの発想がいいのではないでしょうか?仮に100世帯のマンションは特別な事でありません現実はそのほうが合理的なのではないかと思いますが?問題はお金だと思います、だれがなにをするのか?
日本中の海に面する都市を高台造成や津波から守れる防波堤で覆うような発想では無理がある様に思いますがいかがでしよょうか?
2012年06月13日(水)   No.918 (独り言)

大飯原発の再開について。
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福井県の西川知事は原発の安全性が確認できたとして、運転の再開をする動きが更に進展するとの報道です。あの震災の事故で前の菅総理は脱原発をいち早く宣言してこれも又短絡的だと思いましたが、その時はその時で原発事故のあまりの凄からその様な判断をしたのでしょう。その後1年ほど経て、しかし今度は手のひらを返した様に野田総理は大飯原発の再稼働の方向へかじ取りをしました、かなり強引に思えます。
大きな何かにマインドコントロールされている事だと思えてなりません。
今の野田総理は国民の目線にたっているとは思えません?

消費税にしても我々建築を扱う者にとっては大変厳しく大きな問題なのです、なぜならば、住宅を造るという事は、金額的には庶民の人生にとっては一世一代の大仕事といえるほど負担の大きなものなのです、そこに消費税の追い打ちだとしたら、それはそれは大変な事だと私には想定できます。
野田総理には大変失礼ですが、ヒョットしてこの様な背景には、後世に名前を残す人に成りたい「功名心」に酔いしれている様にさえ感じるのは私だけでしょうか?野田総理は何かと世界に対して、どうのこうの言っています、そんなに他の国にいい顔したいのでしょうか?そんなに他の国が立派なのでしょうか?元通産官僚の江田代議士に言わせればこれも官僚の言うなりとの評価です。
でも自民党でも自分で手を汚すことなく野田内閣で消費税を上げさせた後、解散総選挙をねらい、今なら勝って政権を奪取出来ると、読んでいるのでは無いかと思いますこれも又国民目線とは思えません。
町があまりに静かですだれも消費税反対などと廻ってくる政党の広報車もありません、担当委員がゴチャゴチャやっています、結局のところ消費税が上がるのだとの雰囲気になっている様に感じます。国民目線を大切と思うなら、政府は常に世論の調査システムを確立(世論調査室)して、今はパソコンの時代ですいくらでも国民からの情報が入手可能な時代です、もっと国民目線の政治を望むものです。
でも国民の言う事ばっかり気にしてもいけない政治家はそこは政治的判断がいる物なのです、とおっしゃる三宅政治評論家の様な人もおられますが、
私には官僚が全てのシナリオを造っており、手続のシステムが国会という場所の様にしか受け取れないのです。その結果この借金はだれが作ったのでしょうか?政治家と官僚でしょう、国民が悪いとでもいうのでしょうか?まさに「政治不信」「官僚不信」になってしまいます、誰になにを期待したらいいのでしょうか?
2012年06月12日(火)   No.917 (独り言)

燕の子供達

此の燕の子供たちは亀田本町街のアーケードに毎年やって来る燕の子供たちです。旧亀田町では少し前にはこの様な状景は珍しくありませんでしたが、宅地化の影響なのか、ツバメの数の減少なのか又その両方の要因なのかめっきりこの様な状景も少なくなりました。じつは私の事務所にも燕が様子をさぐりに来るので巣造り出来る様に台をセットしてあげたのですが無視されてしまいました燕には私の気持ちが通じなかった様です。
2012年06月11日(月)   No.916 (散策)

松尾芭蕉を連想しながら村上から新潟までの帰路その1。
実は先週の日曜日6月3日に旧朝日村岩沢に住む友人の経営する喫茶&レストランを訪問し、それまでの道のりを6日間にわたって掲載しました。
帰り道ただ帰るにはつまらないので、松尾芭蕉奥の細道を連想しながら帰ろうと思います。金森敦子著、芭蕉「おくのほそ道」の旅、角川書店を手元において御一緒にスタートしましょう。

松尾芭蕉と同行の曾良は今の山形県の温海で分かれ芭蕉は鼠ヶ関を通り碁石から勝木川をさかのぼり中村(旧朝日村)へのルート。
曾良は温海〜湯温海〜子俣〜中村(旧朝日村)へのルートと金森さんは予想しています。
2人は中村で落ちあいそこで泊まっただろうと、でもなぜ中村迄の間2人が別ルートを進むことになったかは謎のようです。
ひょっとして関所通過上その方が都合がよかったのか?又芭蕉と曾良との間で意見が違ったのか?とにかく不自然です。
翌日今の暦で(8月13日)中村から葡萄峠を越えて村上まで大凡8里(32キロ)との事、村上では2泊しているとのことです。
村上では城下の「喜兵」という人たちが歓待してくれたらしいが、実は同行の曾良がいささか縁のある村上藩家老の榊原帯刀に挨拶に行って金百疋(金一分)をもらったとの事です。これは私の想像ですがプライドが高い松尾芭蕉にとってはあまりいい気分ではなかったのではないでしようか?又これまでの道中の松尾芭蕉はけっこう歓待されたらしいです、特に今の山形県内においては歓待されています。越後路最初の城下で家老の榊原帯刀がもっと歓待し句会を催したりしてある程度の逗留を期待していたのでは無かったかと思うのは私のいやしい勘ぐりでしょうか?
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2012年06月10日(日)   No.915 (散策)

ホタルブクロの花。

「関東甲信北陸」地方の梅雨入りが報道されました、一般的には新潟を入れると「関東甲信越」という表現ですが越が無いな新潟はまだかなと思ったり、又別の見方をすれば新潟は北陸に含まれるからやはり新潟も梅雨入りかなどと自問自答です実際どうなのでしょう?
下の写真は梅雨期に咲く花で「ホタルブクロ」の園芸種です。
私の「ホタルブクロ」のイメージは山道などの木陰にあまり派手でなくうっすらとした(ピンク+肌色)..
2012年06月09日(土)   No.914 (散策)

村上市(旧朝日村)岩沢
今日も昨日の続きで村上市(旧朝日村岩沢)までのご案内です、塩谷の妻入りの街並みを見て少し進みますと、旧村上藩主が郊外の松林でお茶を楽しんだとされる御幕場といわれる地名、(今は公園)を通り過ぎて村上市街を通過せずに、高速道路を通行して終点の朝日まほろばインターで降りました、その後5分程度で岩沢の目的地に到着しました。
6月3日にすでに喫茶&レストラン「野の花」をご紹介しましたので、今日は私の元同僚であり又友人である旧朝日村の「大場工務店」の大場社長の建物を古民家として再度ご紹介します。
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お店の隣室の囲炉裏の天井と囲炉裏です。
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神棚がありますが囲炉裏の部屋より1段上のへやに当たります、茶の間といいますでしようか?

一番奥の座敷で床の間や床脇のある部屋で2間続きの部屋になっています。
晴れの舞台の行事などはこの部屋で執り行われたことでしょう、建具は漆仕上げです。

ぜひ古民家好きの人は村上市岩沢の喫茶&レストラン「野の花」に、尚定食時間は12時〜1時までだそうです、その時間以外はコ―ヒやケ−キがあります、又金曜日が定休日だそうですのでお間違いなく。
6日間にわたって岩沢までの道程をご紹介しましたが今日でお終いです。

2012年06月08日(金)   No.913 (散策)

塩谷
今日も村上市(旧朝日村岩沢)までの道中をご紹介します、乙寶寺を後にしちょうど時間も、お昼だったので途中、(旧坂町)の金谷地内の蕎麦屋さんで天ぷら蕎麦にしました、荒川の橋を渡り村上市(旧神林村塩谷地区)です高台から妻入りの街並みを見下ろし、さらに妻入りの格子造りの町家を散策しました。町の中心部に塩釜神社があり、やはりその昔、塩造りをしていたのだろうか?などと連想していたところです。荒川に隣接し良質な米が手に入ったそうです、その米を使って酒を造り北前舟で蝦夷地へ出荷し繁盛した時代もあったとか、さらに北前船の中継地として味噌醤油の醸造業で栄え今でも数件営んでいるそうです。
ちなみに塩谷の更なる歴史の詳細は野沢食品工業(株)さんのホームページをご覧になって下さい。
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2012年06月07日(木)   No.912 (散策)

乙宝寺
村上に向かう道中もさらに続きます。
今日は、胎内市(旧中条町)の乙(きのと)にある乙宝寺です。
その昔松尾芭蕉も奥の細道の道中で立ち寄ったとのことです。
石段の脇には松尾芭蕉が立ち寄ったときに詠んだ句「うらやまし浮世の北の山桜」の句碑があります。
私は残念ながらこの句の意味すると処はわかりませんが、なにかありそうですね。
芭蕉は旧暦6月30日今の暦で8月15日にこの寺を訪れその晩は築地に泊まったと、ある本に書いていました、まさに今だったらお盆だったのですね。そうだとしたら山桜のシーズンはとうに過ぎているはず少しへんですね。
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立派な山門です。
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左の写真は山門の外の池にある弁天堂です。山門をくぐると右手は国の重要文化財の三重の塔です。
今から12〜13年も前の話ですが、この塔を7月頃にスケッチをしに来たことがあるのです、ところがその日は、ものすごい暑さで、途中で投げ出してしまっったことが悔しい思い出でした、当時のスケッチブックには描きかけの三重の塔が今でも残っています。

ところで松尾芭蕉一行は翌日築地を立ち新潟へ向かいますが、海岸沿いの路か陸の路か不明だそうです、金森敦子さんに言わせると海の手前は砂丘で小高くなった地形でその手前は川の水が掃けきれないで湿地帯が形成されそれらを結んで水路となっていたそうです、舟運で米などをを運ぶ事が出来、紫雲寺潟などを経て阿賀野川まで移動する事が出来たとの事です、たぶん芭蕉はそこを移動したのではないかと仮定しています。とにかく新潟(沼垂?に着いた芭蕉は困ったことになるのです旧暦ですが7月2日です、なぜ困ったかは又の機会をぜひお楽しみに。


2012年06月06日(水)   No.911 (散策)

蓮の二宮家 PART-2
昨日二の宮家PART−1をご紹介しましたが、二宮家は登録文化財です今日は建築をご紹介しましょう。
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左の写真は米蔵の窓です。      右の写真は土間の丸太梁や桁組です。
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左の写真は客用トイレでしょうか?      右の写真は客間でしょうか。
2012年06月05日(火)   No.910 (散策)

蓮野の二宮家 PART−1
門をくぐってバラ園です
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昨日の続きですが、岩沢へ向かう途中バラ園で有名な蓮野の二宮家に立ち寄りました、門より外に駐車場がありますがそこにも米蔵があります、ランプ作家の展示会が行われていました。道路を渡って大きな木の門をくぐるとバラ園になっています、丁度バラの季節という事もあって沢山のバラ好きでにぎわっています。バラの写真を撮ったつもりですが結局私は建築屋ということでしょうか結果としてバラ園の写真は1〜2カットだけでした、古い米蔵や建物が主に写真に撮られていることに、あとになって気が付きました。
二の宮家住宅は国の登録文化財という事もありましてどうしてもそうなってしまうのも無理からない様です。
下の写真がその1部です。

バラ園に隣接する沢山の米蔵です
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玄関から建物の内部を見通したところは庭とその向こうは広大な池なのです緑が印象的でした。

池に張り出した茶室です。


2012年06月04日(月)   No.909 (散策)

喫茶&レストラン「野の花」
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今日は村上市(旧朝日村)岩沢に住む友人が、喫茶&レストラン「野の花」という店を開業したとの事で亀田地内に住む友人と2人でドライブを兼ね訪問する事にしました、途中バラ苑で有名な蓮野の二宮家、乙の乙寶寺などを経由して岩沢に着きました。
建物は平屋建てで70坪もあるという築140年の古民家です、玄関を入って直ぐの部屋には囲炉裏が掘ってあり、上を見上げれば大きな丸太で造られた梁が井桁に組まれ屋根まで吹き抜けになっていました、それはそれは実に荘厳なものです。
しばしの間、異次元の世界にタイムスリップする事が出来ます。
「私もお金が有ったらこんな家に住みたいな」と思われる方はぜひ1度、足を運んで下さい、十分その気分を体験出来ます。
店は此の建物の一画を少し手を加えたことから、「古民家+α」の雰囲気です、実際に店を営んでいらっしゃるのは奥様とのことですが、バラの花が大好きで、どの席にもバラの花が1輪差してありオシャレな感じです。
名前も野に咲く花のイメージで「野の花」と名付けましたと、笑顔で応対してくれました。
コ―ヒとチーズケーキを頂いてから建物の中を見せてもらったのですが、やはり出向いたからには建物の全てが見たいものだと思いました。
店と奥の部屋の間仕切りをガラス張りにして食事をしながら奥の囲炉裏の部屋が見える様になったらいいねと、古民家好きの私なりのアドバイスをして、岩沢を後にしました。

下がお店の写真です。
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2012年06月03日(日)   No.908 (散策)

大凧合戦
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先日(5月2日)三条の大凧のご紹介をしましたが今まさに大凧合戦が行われているようです。
広大な新潟平野の水田に田植えも終わって、農家の方は一息入れる時です、旧家では今でも笹団子を自前で作ったりしているところもあります田植えの疲れを自らねぎらう意味と今年の豊作を願って昔から続いて来た行事だと思います。三条、見附、白根地方では大凧合戦が行われます、発祥のいわれはありますが、いまでは川の対岸で大凧を高く揚げそれをからませて凧は落ちますが絡んだ綱で最後は綱引き合戦でワッショイワッショイです。
つまり地域の絆をより高める事が出来る絶好の行事だともいえると思います。
かなり時間を掛けての大凧の製作から、凧上げそして最後の綱引き競争と地域の結束があればこそです。

上の写真は我が家の六角凧のミニチュアです。
2012年06月02日(土)   No.907 (独り言)

谷ウツギの花
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車で山沿いの道を走ると、淡いピンクの花が目に入ります。
車を止めて撮影しました。谷ウツギです、美しい花ですが地方によっては火事花といって、子供が家に持ち帰る事を嫌ったそうです。
又逆に食糧難(飢饉)のときには此の新芽を摘んでご飯に炊きこんで腹のたしにしたとの事、別名「かてまんま」ともいう地方もあるそうです。
それに似た様な話に、「リョウブ」があります、昔は飢饉のときの救荒植物として利用されたとの事でした。

谷ウツギをネットで調べたものを添載します

,燭砲Δ弔 Weigela hortensisたにうつぎ (谷空木 早乙女花) Weigela hortensis 【すいかずら科たにうつぎ属】 分布 北海道、本州日本海側. ピンクの美しい花 ふんわりした花様 拡大写真 広島県の吾妻山 にたくさんある 写真は実物大 この花が咲くと雨模様になる (曇天に似合う花だ) 5〜7月 ...

谷ウツギ|五箇山和紙の里便り2011年6月20日 - わしのさとのブログです。谷ウツギ:谷ウツギの頃となり、たわわに花をつけています。 五箇山では婆泣かせ、ダン(ダニ)の花などとあまりいい呼び方をされていません。 焚き火に使おうとしても燃えにくくかまどの中でくすぶり煙たかったところや、 ...

2012年06月01日(金)   No.905 (散策)

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